yummymyummの日記

こんにちは

お久しぶり

村上春樹海辺のカフカを読んでいる

すいすい〜と読めますね。読者への配慮を感じる

 

村上春樹さんの長編は湿度管理が厳重すぎる。

意図しない湿度を感じることがない。計算された湿度、だから重くない。

意図しない湿度は重い、息が詰まる、それ以上踏み込むのをやめようと思う。

作品の中では実際の日本の地名が出てくるけれど、想像する景色は割と外国に近い。それは文章からくる湿度に関係しているのかもしれないなあ 

 

もうすぐ肌がベトベトする梅雨がやってくる。

海辺のカフカに出てくる図書館で過ごす梅雨はどんなものだろうか、いいなあ、過ごしてみたいな

木でできた椅子に太ももが触れる感覚が好きではないから、海辺のカフカに出てくる図書館で梅雨を過ごすことが無理そうな私は

上野の美術館か博物館でソファに横になりたい。

 

かはくの剥製のコーナーでずっと絵を描いていたおじいちゃんはどこへ行ったんだろうか。

私のお気に入りコーナーは天井に鯨の骨が展示されてある地下2階?かな

鯨の腹に自分がすっぽり囲まれた様子を思い浮かべてみる

 

想像力の欠点

全てが思い通りにいかないと、悲しくなってしまうあなたへ

何もかもが鮮明に見えるうちに話しておきたいことがある。

 

映画や小説、特にファンタジーものにどっぷり浸かる者ほど、他人と自分の境界線が曖昧になりやすいと思う。

生きてると、もしこうだったら、もしああしてたら、と思うことが沢山あって。想像力を持つ人間ほど、自分が選べなかったまた選ばなかった方の道について具体的なイメージが湧いてしまうと思う。それはとてつもない大きな後悔に繋がるし、諦めがなかなか効かない。

snsには人が多すぎる。自分の選べなかった道を選んでいるやつなんて腐るほどいる。そうやって色々想像していくうちに他人と自分の境界線が曖昧になる。

なぜここの場所に立つのは自分ではないのか、そういう後悔が積もってがんじがらめに気づいたらなっている、自分の首を自分で絞めるのがこんなにも簡単なのか。

 

もう私たちの人生は自らものではなくて、他人に見られて評価されることに乗っ取られて、走馬灯がチープなものになるんじゃないかと思う。

自分の人生を選ぶときには走馬灯に写るのはどっちが良いかを基準にすると良いです。見たくないものは見ない、やりたくないことはやらない。そういう道も肯定されるべきです

 

お昼にサブウェイを食べよう

中間層あるある

たまに自分が満ちたりすぎていて、私がこんなに享受していいのだろうかと思う時がある。それと同じくらい自分に足りていないものについて考えて、どう考えても埋まらない溝に対して落ち込む時がある。

前ここに、正のループと負のループは交わらないどんどん開いていくと書いた気がする。もちろんそうで、で、私がどこにいるかっていうと中間だと思う。

今後の行動次第で、どっちにも属することができる存在。学費の心配をなく私立を選べる人間といった時点で、いやお前持ってる側じゃん、ふざけんな。と言われる気もしてる。

少し反論があるとすれば、私もなかなかの地獄を見てきた側の人間だということくらいかな。絶対言わないけど。

 

人類の第二形態において、すべての感情はチェックポイントのようになって、永遠の生が手に入って、死ぬことはつまり生を停止させることと表記される世界。だと太陽・惑星という本に書いてあったな、SFですが。

 

中間ループに属する私は、どれほどの感情を手に入れてきたのか考えてみる。死ぬほどの羨ましさを感じたこともあるし、私が地球上で1番幸せなんじゃないかとも思ったことがあるし、もう明日生きていけないと思ったことも、まあある気がする。それは美醜の話かもしれないし、貧富かもしれないし、それよりもっと大きなものかもしれないけど。

 

太陽・惑星に出てくるグジャラート指数というものが印象的でした。

 

で何を言いたいっていうかというと、何にも言いたいことはないです〜みんなの日常がそのままずっと続くことを祈っている。

 

液晶画面にうつる、紙くずになるお金、本来誰かの日常があったささやかな、とるにたらないものがぶち壊されている様子を、わたしは、暖かい暖房が効いた部屋で、お風呂上がりのほどよく力が抜けた身体でパックをしながら見ている。これを自覚した時点で涙が出てくる気持ちがあなたにはわかりますかね。私が中間層だからなのかもしれないし、ただ何もできない自分に絶望しているからなのかもしれないし、共感して勝手に臨場感を感じているからなのかもしれないし、それは分からないけど。

思うんですよ、こんなまともな考えをしている私の影響力が半径5mなのに、なんで、なんてなんで、、

 

西加奈子さんのiに出てくるアイちゃんが、各国で起こる物事の死者数をひたらすらノートに書き写していた気持ちがなんとなく理解できる。

 

みなさんがどうか生を全うすることができますように。祈りとか願いとか、そのレベルでの繋がりがどうかありますように。

 

 

見えたものは現実か幻想かそれとも

私はもっと他の何かになれると根拠もないのにずっと思っている、というかいた。総理大臣とかアイドルとか 私にしかなれない誰かになれると思っていたし、今もまだ少し心のどこかでそう思っている。

就活の輪郭がぼんやり見えてきた、と同時になんとなくの自分の天井が見えるような見えないような

 

もう何にもなれない気がした。私が心震わせるあの子あの人みたいになれることはなんとなく無い気がする、

私の天井はここで私がそれを天井として認識するときその天井は放射線をも通さない頑丈なものになる。

誰かにお前はここまでだ、と言われるならまだ良い。それは自分で設定した天井じゃないので認識しなければいい。自分で自分の天井に気づく時がいちばん辛い。

自分の天井に気づきながらも貪欲に理想を追い求めるのが努力で、まあ元から天井なんて概念を持ち合わせないのが才能なのかなよく分かりませんが。

私が才能という言葉で自分の怠惰とか恐怖を正当化したい

理想と現実が全く反対にある、理想には時間も費用も莫大なかかる。現実が突きつけられる、いつも見ないようにしていた私の現実からは今回ばかりは逃れられないらしい。

 

ああ無力な私、泣き出さないで〜かわいそうに。気づいたら天井があったんだもの。

でも落ち込まないで

 

 

この世界の成り立ちに自分が避けがたく含まれているのだという認識がもたらす一種の充足感 

(村上春樹1Q84 book3前編)

 

 

美しい地球に生まれた意味をここでは見出せない気がする。私の心の拠り所は絶対別の場所にある、この日本のどこかには必ずある。

 

朝見た上のほうでキュッと紐で結ばれたキャベツたちがどうしようもなく可愛いかった

 

 

 

 

1九84

大学受験の帰り、まだこの先の進路に迷う中でとりあえずここが1番だと選んだ大学で受験した帰りに電車の窓から見る夕日がとてつもなく綺麗で

私のいる場所は間違いではなかったと思ったし、迷ったことも投げ出したくなったことも全部肯定されて、これで合ってたんだと思ったのをすごい覚えている。

毎日見える夕日はたぶん一緒なんだけど、どうしようもなく寒い受験の日に

私を慰めてくれたのはあの夕日だよな〜と思っている。

受かったかもわからなくて、その時の私の世界は今よりずっと狭かったからここの大学に落ちたら人生終わると思っていたから

 

受かっていた、嬉しかったし何より自分で掴みとったはじめてのものだった気がした

両親がなんとなく示したくれた道を何となく納得して、テクテク歩いてきただけだったから

初めて私はこうしたいんだと両親に伝えたし、自分で自分のことを真剣に考えた経験が大学受験だったと思う。

 

夕日を見たことを母親に伝えた。あの日なぜかわからないけどとてつもなく電車の窓から見る夕日に慰められたと言ったら、いきなり泣き出すから何事かと思ったら

私の母も同じ経験があるらしい。

大学受験ではなかったけれど、間違いなく人生の分岐点で電車の窓から夕日を見てそれで慰められて決心したことがあったらしい。

半分同じなんだなと笑ったし、なぜか私も涙が出てきて

今でもあの瞬間のことを思い出す

 

太陽が大きくて、それは近くて、赤くて、彩度が高い青色に赤色が滲む瞬間を私はこの目でたしかに見たと思う。

今日も夕日が綺麗

だけどあの日の夕日は今後一生見れないと思うし、その方が私にとってその瞬間が何倍も特別になる。

 

昨日は月を見た。やけに綺麗だった、右下に細い三日月が見える

でも昨日は欠けている部分までが見えた。欠けている部分が完全に空に溶けきっていない、すごい

夜は暗いのに、昨日は月が溶けなかった。

家に帰ったらニュースでほぼ皆既月食とか流れていた、朝言ってくれたらもう少しまじまじと眺めたのに。

 

比べられないほど遠い星が私のところから見える、もちろんみんなのところからも。

私の選ぶ選択は間違っていないと思う、私はそう思うし夕日が、月がそう言ってくれている気がする。昨日の月は綺麗だった