yummymyummの日記

こんにちは

強さと対極にあるものが、人間を人間たらしめるものなのではないかと思うときがある。

 

強さの前で、私は飲まれるしかない。

圧倒的な強さの前では、従うしかない

従うことすら自分で選んではいない。

爆弾が落ちて、下にいた人に考える時間なんて与えられないように。

 

しかし、強さは何だろうなと思う。

終わりが見えない、強さとは核兵器か、またはどうしようもない貧乏から這い上がる力か、それとも圧倒的な強さの対極にいる者とともに声をあげることなのか。

 

私のほとんどを構成しているのは、私の網膜から脳に伝わる、隣接したいくつものリアルと、そして私のネガティブであると思う。

苛立ちや、憎しみや悲しみがあって初めてそれとは正反対の感情を抱くことができると思う。

1番の強い悲しみを知った人は、1番の強い幸せを感じることができるのかな。

感情は数値では表すことができないから、わからないのだけど

 

辛かった分、幸せになれる とは、辛いという強い感情が己の心に宿った瞬間、感情の指数がぐうんと上がり、幸せという感情も強く感じることができるようになる

ことではないかと感じる。

これで行くと、1番弱い人間は1番強くなれると言える。

弱い人間は弱さを知る分、強さのことを知っている。

しかし、例外がある

強い人間は強さを知る分、弱さのことを知らない。場合がある。

 

なぜなのだろうか

1番の強さを知る人は、何故1番の弱さを知らないことがあるんだろう。

 

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映画のこと

オッペンハイマーを見た

180分と長いフィルムです

 

自分の愛人の死に対して向き合える人が、何故日本国民おおよそ22万人の死とは向き合えないんだろうな、でもそれは当たり前のことなのかもしれないなとも思った。

何故かというと、彼らの言動に不自然さ(ここでは道徳的に正しいとかそういうことではない)がなかったからだ

3年、20億ドル、自分のキャリア、失敗すれば首が飛ぶプロジェクト、成功したら嬉しいのは当たり前なんじゃないかな。ただそれが原爆だったという、なんて悲惨でなんて怖いんだろう、過去の人類はなんて破壊的な新世界を生み出してしまったんだろう。原爆の実験に成功して喜ぶ彼等は「日本国民を殺せる、日本に勝てる」ではなく、純粋にただ嬉しかったように見えた。

 

何だか、人を殺すための議論を聞いていたら、私たちがゴキブリ退治にかける情熱を思い出した。

人間は色々ジャンル分け、カテゴライズされるけど、果たしてどこまで違ったら自分と同じ痛みや苦しみや、そういうのに共感することができなくなるんだろう。どこまで違えば、相手を人だと思えなくなって、力を振りかざすことができるのか。

 

見てよかったと思ったのは、原爆を作った人間、落とすことを決定した人間も、しっかり人であったということだ。私はずっと、原爆に関わった人間なんて、人の心なんか持ってないんだ、だからあんな悲劇が起こってしまったんだろうと思っていた気がする。でも、22万人もの尊い命を奪った人間達は、彼等なりの正義感を持ち、家庭を持ち、愛する人の死を悲しみ、裏切りを悲しんだ人間臭い人達だった。だからこそ怖かった。

 

ナチュラルに人は人のことを殺せるんだと思った。人の事を殺すのは不自然な行為ではなく、生まれ持った極悪人的思想でもなく、自然な物事の連続だった。

「我々は」ではなく「私は」

 

オッペンハイマーへの賞賛は、何だったのだろう。強さには終わりがないと思う。ひとりひとりのほんのひとつまみの丁度いい程度では止まらない好奇心と、自己を正当化する心が、自然な物事の連続を生み、その結果が22万人の悲惨な死だったのかと思う。

 

私たちは、ごく自然に、おぞましい行動ができ、それは誰ひとりとして例外でないと思う。私は自分が強さのうわずみだけを吸って、強さの盾に安心して生きている気がしてならなかった。

 

 

東京生まれ東京育ち東京嫌い

就活が終わって数ヶ月経った

就活中は、すごく大きなひとつの不安がどおんとあったから細かい不安には気づかなかった〜

すごく辛かったけど、今同じことやって!って言われても絶対2度としたくないけど。

 

最近都内で息がしにくいと思う、季節の変わり目だからかな?

表参道〜渋谷、池袋、新宿、銀座...どんどん苦手意識がある街が増えていく。悲しい

目的のないウィンドウショッピング、私はいつまでこの雑踏の中にいればいいんだ、、?と虚無感

嫌な匂い、汚い道路、溢れる人、人、顔、顔、知らない声、360°どこにも逃げ場がない

壁があるところに逃げたいとトイレに行こうとする、トイレさえごった返している。え?

 

人混みの中に自分の居場所なんてあるわけなくて、通り過ぎる人の顔とか服とか声とかに疲れて、鏡を見ると、今日見てきた人の中で自分がいちばんどっと疲れた顔をしていることに気がつく。

 

綺麗な人とすれ違う、自分の顔と照らし合わせてみる。

頭の良い人と話す、自分の学歴を恥ずかしく思う。

お金を持っている人を見る、自分の貯金口座の数字を頭に浮かべる。

はあ...もう限界なんだと思う。

ずっと家でネコと一緒にいたい、私は誰とも比べたくない。知らない人と顔を合わせたくない、誰にも見てほしくない、ずっと家で本を読んでいたい。

 

 

 

 

お盆にそれぞれパパ、ママになったいとこの話を聞いた。

それぞれにとても大変そうだったけど、聞けばすごく表情がいきいきしていた。

幸せそうで、私まですごく嬉しくなった

誰かのために一心不乱に生きている人は、本当にカッコいい顔をする、深みのある暖かい笑顔をする。

 

私にも、子供ができたらすごく幸せなんだろうなと思った。

それと同時に

もしかしたら、私たちの大部分は自分1人のためだけに生きられないのかもしれないなと思った。

自分1人のためだけに用意する食事、自分1人のためだけに貯めるお風呂、自分1人のためだけに買う美しい花、、どこまで自分のためだけにできるのかな? 

 

家族や友人、猫やメダカ、そういう自分とは異なる生命と暮らす、同じ屋根の下ではなくてもその人を想って暮らす、生きる

そうじゃなくっちゃ私たちは、少なくとも私は、自分を大切にしながら生きるのは結構ハードルが高いことなんじゃないかと思った。

 

1人の時は、リビングで明かりをつけたまま寝てしまう。お風呂もシャワーだけ、

そういうのが悪い訳じゃないよ。ただ誰かいるのと、1人の生き方の違い?みたいなものだよ。1人でも、自分のためにすんごいエネルギーを使えちゃうスーパー人間もいる。すっごい羨ましい

 

誰かのために、掃除機でも洗濯でも、寝る時に電気を消すでも、靴を揃えるでも、

そういう積み重ねは結局自分のためになってることも多いと思った。

他人を大切にすることで、間接的に自分のことも大切にできるのかなあ..とも思った。

 

最近私が、自分のことを大切にしてよ!って人に怒ったけど、自分のことを大切にするって、何、、??なんなんだろう??と私が思った 

 

自分1人のためだけに、私はどこまでできるんだろう?そして誰かのためになら、私はどこまでエネルギーを使って、どれほどのことができるんだろう?

 

なんだか無性に今一緒に生きている家族、友人、好きな人、猫をすごく大切にしたくなった

 

 

 

 

 

A

心のない人間は絶望を捨てていい代わりに、愛情や友情を知らない。

 

次へ繋ぐのだ、不完全でも、なにがなんでも

繋ぐものは命だけではない、私は次々と来る若い命がめいいっぱい輝くことができるようにしたい。

私は、人間の不完全な部分を愛したい。

完全を追い求めて、不完全な存在にしわ寄せを、不完全な部分を押し付ける人間にはなりたくない。

 

そして私は、自分の受けた生命を大切にしたかった。私は、私より長く生きている人間に、この世界の全てを肯定して欲しかったんだと気づいた。

大丈夫、世界は美しい。私がそれを証明した、だから安心して生きなさい。

と誰かに言って欲しかった、そう思わせて欲しかったんだなと思った。

 

私の生きるこの世界は矛盾で溢れていて、絶望や幻滅、焦り、不安、憎しみがうようよしていて

それでもどうしようもなく美しいから、そういう瞬間が一瞬でもあるから。

だから次に繋ぐ、不完全で完璧じゃなくて、欠点なんてありありで、ぼろぼろでも

 

戦禍で生きるまひと、彼は人間らしさをこめかみにつけていたな。

私はそういうのが好き、人間の心の部分だから、影の部分だから。

彼は強かったな、不完全な存在に不完全な部分を押し付けなかった、認めて、その死体が次の姿になれるよう、きちんと埋葬した。

なつこさんのお前なんか大嫌いだ。も同じくらい好き、彼女が幻じゃないと信じることができるから。

 

誰かの悪意で人が死ぬ、まただよ。私は、また罪のない誰かが死ぬのを横目で見ているだけになる。本当に無力だ

己の完全性を証明するために、また誰かが犠牲になる。そういう醜さを、卑しさが、ぐちゃぐちゃになってひとつにまとまって、世界を覆い隠してしまうんじゃないかと思って怖かった。

 

私は、至福を感じながら生きたい。愛情に友情に、喜びに嬉しさを感じながら、生きたい

絶望のない至福はどこにもない、本当にそう思う。

私はこの世界を少し愛することができたと思う、生きる気力が湧いてきた。

 

 

 

 

 

 

深夜2時に玄関で、私の靴と自分の靴を丁寧に磨く人間を見て、生まれて初めての感情を覚える

私が手にできたはずのものと、実際に手のひらにあるものと、手放してきたものについて、また誰かに搾取されたものについて考えてみる。

もうダメかもしれないと思った時に、淵から落ちそうになる私の手を、引っ張るでもなく、落とすでもなく、ほんの少しつま先を生きる角度に向けさせてくれたのはコンビニスイーツだったな

 

信頼できるところは沢山ある。

まず私の靴を丁寧に磨いてくれるところ、

そして私の話を遮ることなく聞いてくれるところ、なにより胡散臭い同情をしないところ

ふうん、そっか、大変だったんだ、これからは大丈夫だよ。と同情とかじゃない、哀れみとかでもない、過去をただ過去として受け取って、確実に未来に目を向けている人の言葉だな〜

 

しなくていい苦労はしないほうがいい

貧乏とか、ありえないこととか、ありありと想像することが不可能な超自然的な苦労とか。

その苦労があったから〜今我慢強くなった、屈しない心ができたうるさいうるさい、苦労を押し付けてきた側が言うな。しなくていい苦労をさせた側が言うな、黙れ、とブチギレてしまう私に。

 

死ぬまでに小説を書いてみたい。3作品くらい、私の話を誰かに読んでほしい。文字の温度管理はちゃんとやります

 

私の自由な心について、誰にもわからない揺れ動きについて。私のためだけの私の心の一部について誰かに聞いてほしいし、知ってほしいし、興味を持ってもらいたいな。そう在りたいな

いつか私の紡ぐ言葉が、誰かにとって最適な場所になるといいな。私にとっての村上春樹みたいに、私が求めていた温度と湿度と場所が図書館の棚にあったなんて。私は長い間知らなかったな、知ってはいたのかな

グッと空間を押し広げて、私の息が詰まる苦しさを取り除いてくれる村上春樹さんが作る世界のように。誰かにとって こう 在れるように、

小説を書くことが叶わなくたとしても、私が作る時間と、私と会う時間と、私が作る料理と、私が過ごした今日という時間と、、その他について。誰かにとっての良い場所に少しでもなれるといいな♩

 

辛いことも多いでしょう、春はね特に気持ちが沈みやすいから。

沈んだときはシフォンケーキを食べましょう。

コーヒーも淹れましょうね、知ってますか?ハーブスのコーヒーはおかわり自由なんですよ♩

 

苦しい時間が減りますように、どうか祈りとして届きますように